功夫 コンフー
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太極拳の先生から「功夫」という素敵な言葉を教えてもらいました。
「功夫」とは、中国語でコンフーと読みます。実はカンフーのことです。そうすると頭に思い浮かぶのはカンフー映画だったりします。

北京語ではピン音: gōngfū だが、ブルース・リーの中国武術香港映画の映画が世界的にヒットした際、ウェード式、もしくは広東語の伝統的な表記法によって Kung-fu と書かれ、英語読みされた「カンフー」[ˌkʌŋˈfuː] (聞く) が世界的に中国武術一般の総称として広まった。
似たような言葉で工夫(くふう)という日本語がありますね。「よい方法や手段をみつけようとして、考えをめぐらすこと。また、その方法や手段。」って感じでしょうか。
中国語でも同様、工夫は「新しいことを生み出するのに骨を折ったり、そのためにかかった時間」の事を言うようです。
本音を言えば、新しい事を編み出す苦労は、できればしないで済ませたいですよねー。
先人がいなかったり、誰にも教えてもらえない環境だったら、また正しい道筋かもわからないまま進み続けなければなりません。暗闇で試行錯誤を繰り返している気分になります。
それが嫌で先生についたとしても。
お師匠さんに教えてもらって即座に理解し指示された通り完璧に出来たとしたら…創意工夫の必要はないのですが、たいていの場合は家に帰ってから考えこんだり、もっと悪いのは忘れてしまったり…

そんな中、チラホラいる要領の良い人は特徴を捉えて自分のものにするのが得意な人です。観察力が優れていて見たものを身体の実感として感じたり記憶できたりする人がいます。
内村選手は子供の頃から練習場から自室に戻ると他の体操選手の動画を見ていたそうです。動画を見ているだけでも、体感として運動を感じたり運動の記憶として残るそうなのです。
体操選手は特に優れているそうですが、誰にでもある能力だそうで、だからレッスンに行って帰って来ただけで、なんとなく弾けるようになった…なんてこともあるのは意識はしてなくても、先生が弾いているのを見ていて自分の実感として記憶出来ているせいなのです。

が、たいていの新しく学んだ事は中々身に付かず、四苦八苦するわけですが、その手間や時間をかけることにより、自分のなかで再構築されたことが、その人にとって大切な宝となるんだと思います。「功夫」とはそういう苦労人にとって慰めになる言葉です。
「功夫」とは、元々中国武術の言葉ですが、中国やその他の地方では、中国武術に限らず広く使用される用語で、中国武術で重要視される「練習・鍛錬・訓練の蓄積」、また、それに掛けた「時間や労力」の意である。「功夫が足りている人」のように用いられます。その世界では最高級の褒め言葉だそうです。
とりあえず「功夫の足りている人」を目指してみようと思う、この頃です。

2016.12.11│コラム
身体を使うことの意味
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太極拳のお稽古では24式という一連の動きを覚えることから始まります。クラシックバレエのお稽古でも、初心者は「滅茶苦茶で良いから中に入って踊る様に、決して壁に張り付くな!」と、とりあえず先輩たちの中に入って隣人の進路妨害にならない様ウロウロしながら、見よう見まねで動くところから最初のレッスンが初まりました。
…とここまでは、前回のコラムの引用で、ここから今回の話が始まります。

クラシックバレエの最初のお稽古は、基本的な、*1「パ(歩)」や「ポール・ド・ブラ(腕の動き)」「ピルエット」などの回転系の動きや、動きのコンビネーションを練習する事なのです。バレエ用語がサッパリわからないような「ど」のつく素人は、嫌がられたので、近所のヨガ教室で教えをしているバレエの先生に習いました。
そのスタジオは、恐ろしいことに、自分を含め2人しか生徒がいなくて、相方の事を考えると高熱を発してもお休みできない…そんな過酷な環境に置かれてしまいました。その先生が妊娠出産のために辞められたのを契機に「チョット外で習ったんなら入っていいよ。」ということで「執行バレエスクール」にお世話になることにしました。

太極拳の場合は、24式の繰り返し練習なので、全くの素人でもすぐスタジオにに入れてくれました。
そこのクラスは長く習っていらっしゃる方ばかりなので、いたたまれなくなった私は先生に「もっと初心者が習っているクラスはありませんか?」とお聞きしたら、同じような下手ばかりの中だと、かえって習得が遅れるとのことでした。
それはバレエも同じで、基本的な用語や知識が少し入ったら、うろ覚えでも上手な人の中に入って、気分だけでも「経験のある人と同化」していた方が、伸びるのが早いんだそうです。(確かに、バレエの「ど素人2人のプライベートレッスン」は体が辛いばかりで、進歩は全くといいくらい有りませんでした。)
でその両方とも、暫くしたら「うろ覚え」程度になり、集団に混じっていられる様になりました…
バレエと太極拳、並列して書いてしまいましたが、クラシックバレエを暫く習っていて、股関節に不具合がありバレエを続けるか悩んでいた時に、近所のフィットネスクラブに入会し、そこで太極拳に出会う…という経緯です。
太極拳の先生もバレエの先生も、人の動きを真似するために視線が動くと、その瞬間から目差す物と違うものになってしまう、と言われます。目線がブレると顔の位置や向きが変わってしまいます。すると重心の位置や関節の具合が変わり、それが全身に影響を与えるからです。
目線まで注意しても、太極拳の先生からは「何故そのような動きになるのか、分からなくてやっている人ばかりだ」と言われました。
例えば、「暴漢が迫って来たので石を投げて追い払う」とします。まず石が分からないといけません。石を探して拾って握ります。
で、暴漢に目掛けて投げる、という一連の動作をするわけです。
ところが、「まず暴漢が来た事を知らない」「石が分からない」「何を投げているのか分からない」「投げ方が分からない」のような、とりあえず今やっている事の意味がわからないけど、周りと同じような行動をしているとしたら…
手の中に何もなくて投げるふりをしている人、ちゃんと投げているけど木の葉?を投げてる人等々。一見、正しい順番で動いているけど、これではやっていることが違っています。私の行っている太極拳のクラスでは、この状態を辞めましょうというお稽古に段々と突入して来たのです。
「意味不明でも、うろ覚えで周りを確認しながら動作する」でも自分的にはかなり出世したなぁと思っていたのですが、「動作を覚える」が叶ったとしてもそれで終わりではないらしい。何故そのような動作になるのか、きちんと理解すること、そしてキチンと出来たとしても…
話が戻りますが、例えば「石を投げる」動作がちゃんと出来たとして、「暴漢を追い払う」という意味が分からなくて暴漢の頭に石を”ど”ストライクで当てて殺してしまったら、自分が殺人犯になってしまいます。「だから塩梅を知るという事も大切だ。」と先生は熱弁をふるっていました。
「動きの完成は、目標でなくて、最後の表れである」一年前くらいに言われていた言葉にまたまた戻って来ました。

楽器演奏も身体を使うの事なのです。ですから「何故身体にこの様な振る舞いを要求するのか」わかる様に教えてもらえると骨身にしみるというか、理解がうんと進みますよね。思い通りに「発音する」「リズムを表現する」その為にどの様に身体を操っていくのか、声楽の人は「身体が楽器」で力の出し入れのタイミングが命ですから、例えば私の声楽のT先生は、「身体をいかに操るか」の教え方がとても上手です。
ピアノ等、楽器を弾く人も身体をどうやって操るのか意識しながら練習していくと、色々発見があるかもしれないし、教える立場になった時も役に立つんじゃないかなぁと思います。

楽音は演奏家の動きの最後の表れである…でしょうか?

2016.12.03│コラム