素直さと謙虚さ
すいません、今回のコラムはピアノとは直接関係がないかなぁ・・。

素直な人は上達が早いと良く言われますよね。それについて。
歌のT先生は「家で練習してくるな」と言われます。理由は、勝手に練習して変な癖がついたのをレッスンの度に治すより、毎回真っ白忘れてレッスンに来てくれた方が、よっぽど進歩するから。真っ白と言っても本当に体感して身についた事は覚えているので、その微微たる蓄積は馬鹿にならないそうです。
太極拳の先生も同じ事を先週言われました。
正しい道筋を指導して、ちょっとはできるようにして帰しても、一週間たったら、バリバリの自己流でバッチリ固めた姿でお稽古場に戻ってくるんだそうで…
太極拳の先生は、どんな人もお稽古の内容を練習場に置いて帰ってしまう…と言ってました。しかし、中にはお持ち帰りの上手な人がいて、えらく早い勢いで上手くなる人がいるそうです。そういう人は色々工夫をしていて、コッソリ黒板を写メしたり、ポケットにメモを忍ばせていたりするんだそうです。

レッスンからレッスンの間、自分の思い込みに囚われないように、過ごす事は大変ですね。私は自信がないので、歌も太極拳も家では殆ど練習しません。
良い師匠に巡り合っても、その出会いを生かせない人もいます。テノール歌手で声に恵まれていて、お弟子さんを育てる事でも実績のある方でしたが、縁あって伴奏をさせていただいた事がありました。幸にその方の師であるウイリアム・ウー先生のレッスンに同行する事ができました。
そのテノールの方は、自分の声に溺れて、先生の言われている事を素直に聞けず、自分を変える事が出来なかったので、何も得られず先生の元を去って行きました。何故か、ウー先生は私の事を可愛がってくれて、あなたは良く分かっていますね。あなたも歌いなさい…と言ってくださったのを嬉しく思い出しました。

先生に言われた事の「端だけ」聞いて、理解した気になる事があります。ちょっと聞いたくらいで、分かるはずはないのです。「私も思ってた❗️」とか「知っています❗️」とか、既にその時点で違う事になっているのです。言われた事を自分の曲解なしにそのまま受け止めるという事は、大変難しい事なのだと、肝に銘じなければいけないですよね。
ウー先生は亡くなられていました。そろそろご高齢なので、もしやと思っていましたが…自分が去らなくても、先生が去ってしまう事も有ります。そうなると、もう教えを受けられなくなります。先生とのご縁もいつまで続くかわからないと思って、一瞬一瞬を大切にしたいです。

2016.05.10│コラム
レッスンの大切さについて

自分の身体に対する認知力がどんなものだか。…意外と意識しないで過ごしていますよね。今、膝が曲がっているか?肘が曲がっているか?とか。身体に近い部位の大きな関節は分かりやすいです。
では、バレエなどのお稽古を受けていると思って下さい。先生が指示をだします。「はい!では顔は正面で真っ直ぐ立ったまま、右脚を腿付け根から真後ろに上げて下さい。」「その時に足首や肘が曲がっていませんか?気をつけて。」と言われた瞬間、なんの予備知識が無い集団の場合は約半数の人が後ろを向いて、先生から「顔は正面です‼︎」と怒られます。
ボディテクニックの先生が、「なんで足を後ろにあげるのに、いちいち振り返るのか、訳がわからない。」休憩時間にこぼされました。先生は親子二代バレエダンサーで素人感覚がわからないのです。私が「後ろに足を上げてしまうと、自分の足がどうなっているかわからなくて不安だから、見て確かめるんです。」と答えると「いちいち身体がどうなっているか見ていたら、姿勢が崩れるじゃないか。見ないと身体がどうなっているか分からないなんて、何処か身体が悪いか脳に障害でもあるのではないか…。」と絶句されましたが、訓練されてない人なら真っ当な反応だと思います

実は昨日の太極拳のお稽古、「自分の身体を見ない」「鏡を見ない」「他の人を見ない」で本当にコマ送り状態、身体がどうなっているか、しっかり認知してから次の動作に移ることを、叱咤激励されながら1時間以上も練習しました。…ということは誰かの見様見真似は出来ないです。ヤバイ!
シツコク認知させないと身体はキチンと反応しないのですよね。太極拳の先生もバレエの先生同様、「これだけ言っているのに、違うことをしている人がいっぱいいます‼︎」と大声を張り上げていました。

思った通りに身体を動かすことは難しいですが、正しいと思い込んでいる間違いを矯正することは、自覚がないので、自力ではほぼ無理です。どんな人でも肉体には癖があるので、真っ直ぐ立っていると思っていても、実は反り返っていたり…とか、するものです。
だから、長年培ってきた芸事のお稽古やレッスンに通う習慣は、自分の発想や理解の範疇を超えた物を教えていただける以外に、客観性を持ち、身体を労わって使うことの気づきになるので、やはり大切なことだと思います。
…太極拳で思い知りましたが、この様なお稽古は、忍耐力も試されますね。

2016.05.08│コラム
クラシックの歌い方

T先生の声楽のレッスンに週一回から10日に一回くらいの頻度で通っています。声楽のT先生は国立音楽大学音大に入る前から師事しています。学内や伴奏の仕事などでいろんな声楽家や声楽の先生と知り合いましたが、T先生とウイリアム・ウー先生だけが本当に筋道の通った教え方ができる人だと思っています。T先生は声のない私にも諦めることなく、声楽の基礎と歌い方の良し悪しをみっちり伝授してくださって、本来なら音大生でも難しいヴェルディやプッチーニのアリアを仕込んでいます。お陰様で、自分はさほどではないのだけれど、聞く耳だけは肥えてきました。
発音の仕方や立ち上がり方が全く異なる「歌」と「ピアノ」ですが、不思議なことに、「喉で押して歌う声」と「鍵盤を押して出す音」(えっ!鍵盤は押さないと音が出ないでしょ?って。でも、ぎゅうぎゅう押しちゃったら良くなさそうでしょ。)は同じような「音」になります。
歌の場合は音高で重心が上がったり下がったりすると良い歌い方になりませんが、ピアノも同じです。T先生から「飛び上がるな。」とか「同じ位置で歌え。」とか言われなすが、私もピアノのレッスンで同じような言葉が出てくることがあります。「今のは押したでしょ!」「飛び上がっちゃダメ」とか・・・。歌に詳しいU先生とも「歌の発声の仕方をピアノに当てはめるのは、旋律の歌い回しには良いかもしれないし共通点が多いかもしれないですね!」と盛り上がったこともあるので、あながちハズレではなさそうです。
クラシックの場合、男性は地声ですが女性は裏声です。だから2オクターブを超える声域が使えるのです。チェストボイスとヘッドボイスを混ぜながらうまく梯子を上ったり下がったりするように声を出さなければなりません。低音域はものすごく息が入りますし体力も使います。重い物を持ち上げる要領です。高音域のヘッドボイスは息があまり要りません。息を入れすぎると声が割れます。なので1音ずつ微妙に息の量を調節しながら発声すること、タイミングとリズム感でうまく体を操れば、声が大きくなくてもちゃんとした歌い方ができて、わかる人が聞けば「あの人はちゃんと勉強している、いい音楽を持っている。」と言われるけど、逆に声自慢でちゃんと勉強していない人は「いい声をしているけど残念ね。」と言われる、というのがT先生からいつも聞かされて耳タコになっている言葉です。

先日、何人かのソプラノ歌手の歌を聴く機会がありました。中音域きが「カスカス」でト音記号の5線から上の「ソ」の音くらいから響きがつくような発声をしている人がいました。チェストボイスの重心が上すぎで喉声になっていているのです。喉声で歌うと自分には良い声に聞こえますが遠くに届きません。ピアノ伴奏ならまだ聴こえますが、オケ伴なら全く通らないそうです。ソプラノの良し悪しは中低音域の声を聴けばわかります。(と、長い間レッスンに通って刷り込まれました。)「音域によって声質が変わるかどうかをチェックしたら、歌い手さんがどんな勉強をしたか簡単に判別がつきます。」って、T先生から言われていましたが、最近は私でもわかるようになってきました。それから先生がおもしろがって生徒に貼り付けているプロ仕様のテクニック、先生から自慢げに「プロでもできる人は少ないのよ。」と言われていますが、ちゃんとオペラを歌う人しか知らないのだろうなぁ・・と思うこの頃です。
私が ‘身の丈に合わない高度な声楽のレッスン’ で学んできた、歌うときの「感とリズム」と「体の使いかた」と「力を出すタイミング」は、声楽独特のものでありながら、道を先に辿っていくと他の楽器、ピアノ演奏にも共通した道に辿り着きそうです。だといいなぁ・・・

2016.05.04│コラム
クラシックとポピュラー

クラシック畑の人が、Jazzの書き譜を弾くと変になっちゃうことがあります。言葉で言い表せないけど、聴いていて気持ち悪いです。たぶんビートの取り方と和声感の問題だろうと思います。でも、クラシックの人は楽譜に書いてありさえすれば、弾くことは可能です。
逆にポピュラーの人がクラシックを弾くと難しい、無理‼︎と感じることがあります。それは普通にルバート(tempo rubato)の概念がないからだと思います。
ポピュラー人は「一にも、二にも、リズムがタイトである」ということが求められます。その感覚でショパンのノクターンを弾いたら、多分超絶技巧を超えて演奏不可能でしょう。
逆にクラシックのひとはリズムタイトの感覚が無いので、弾けても変になっちゃうんでしょう。
クラシックの人は書き譜面が得意です。大譜表に全て書き込んであるものを再現する訓練を楽器を手に持って直ぐ始めます。なので当たり前過ぎて「書き譜」という概念すらなさそうです。
ポピュラーには譜面を読めない人もいます。以前「音価と音高をいっぺんに読み取らなければならないので、楽譜は難しい」と譜面を読めない人とセッションして言われたことがありますが…百歩譲って、その方の気持ちもわからないではないのですが、音価と音高がバラバラに書いてあったほうがより悲惨だと思いました。確かにポピュラーはジャンルによってですが「難しいよね!」って愚痴っているだけで譜面が読めなくても済んじゃうのです。
JAZZは譜面が読めないと困るジャンルです。上記の譜面の読めない人もJAZZのセッションをして、いっぺんで矯正されて譜面が読めるようになりました。残念ながらメロ譜が分からないとセッションに参加できません。
メロ譜とは、高音部譜表にメロディとコードが書かれている譜面です。親切だとイントロやエンディングのメロも付いています。ギターのタブ譜が書かれている場合もあります。ギターの人はタブ譜を見て簡単に弾き語り方できるそうです。
私はタブ譜を読めません。クラシックギターではタブ譜は使わないのか、しばらく習っていても、タブ譜に出会うことはありませんでした。ギターでもこんな違いがあるんですね。
メロディとコードだけが決まっているから、インプロビゼーションも簡単です。融通のある楽譜だから、今日集まったメンバーと「ボサでいく?」で演奏途中でリズム隊の気が変わったら4ビートになって、最後はボサに戻って…なんて勝手なことが集団でできたりもします。
クラシックで育った人は、要領と感がわかれば、ポピュラーにチェンジするのは楽です。楽譜だつて読めるに越したことはありません。
クラシックでもインプロビゼーションをしなくてはいけない時代が有りました。バロック時代は通奏低音と言われる低音の旋律のみが書かれて、それに適切な和音を付けて演奏されました。今のポピュラーのコードネームに近い感覚です。また、協奏曲なんかの「カデンツァ」などソリストがオーケストラを伴わず自由に即興的な演奏する部分がありますし、現代でも、独奏協奏曲の「カデンツァ」などソリストがオーケストラを伴わず自由に即興的な演奏する部分があるので、インプロビゼーションの機会もあります。
ポピュラーの人がクラシックの譜面を見て弾くほうが困難なのかもしれません。なんせ低音部譜表に左手の動きが事細かに書かれているし、両手が重音になっている楽譜を見るのは中々苦痛です。メロ譜に見慣れていると、本当にヘ音記号が読めなくなりますから。
という訳で、クラシックが強い人、ポピュラーが強い人、それぞれ得て不得手があります。ジャンルを超えて、色々なものにチャレンジするのは楽しいと思いますが、チャレンジしたいジャンルに必要な感覚を身につけるには、今までとは違う練習なり鍛錬の必要性があるかもしれませんね。
とは言え、ポピュラーでもピアニストは譜面を読める必要性があります。楽譜を読め無いメンバーが達がその部分で、一番頼りにするのがキーボーディストだからです。

2016.05.02│コラム
サティについて

芸術が爛熟していた世紀末、その時代の風変わりな作曲家で、イベールと同様、フランス六人組に入れてもらえなかった、イマイチ王道路線に乗れなかった印象があるけど、その後の音楽シーンに多大なる影響を与えた人であることには違いない…なにか魅力的なんでしょう。

サティの時代展は、サティと、その当時の世相を美術や音楽、舞台芸術まで網羅した、とてもオシャレな展示会でした。

サティは「3つのジムノペディ」神秘主義のイメージがあります。それだけじゃなくて、キャバレーでピアノ弾きをしていたので、集う人の邪魔にならない ‘ただそこにあるだけの音楽’ 「家具の音楽」を書いた環境音楽の先駆者でもあり、その系譜は、デビッド・ボーイやU2のプロデュースや演奏ででアルバムに参加した‘ブライアン・イーノ’や「4分33秒」で有名な‘ジョン・ケージ’に繋がり、また映画「幕間」のような繰り返しの音楽を書いて ‘スティーブ・ライヒ’ に代表されるミニマル音楽の先駆者となりました。

イーノ、デヴィッド・ボウイ、、コールドプレイ、ライヒやパット・メセニーグループは大好きだし、ケージは生を大学で見たこともあるし、(その時は子供の描いた絵を音楽に変換する楽器を披露。「サボテンの演奏」とか凄すぎでよくわからない・・・)その大元になったサティを何か弾いてみようと突然思い立ちました。
その時代、パリのモンマルトルには、大勢の芸術家がキャバレー「ムーラン・ルージュ」「シャノワール(黒猫)」に集まって芸術の拠点となったそうです。ピカソやルノワール、ジャン・コクトー、アンリ・マティス・・・すごい面々ですね。その「シャノワール」でサティはピアノを弾いていたのです。

キャバレーでは影絵劇も上演されていました。
モダニズムの中で、サティはバレエ音楽も手がけます。衣装と舞台装飾はピカソ、脚本はジャン・コクトー、バレエ団の主催はディアギレフです。展示会で見た‘バレエ’「パラード」は、なんだかよくわからないけど、突き抜けたオシャレ感が満載でした。

なので、舞台関係のマイナーでオシャレそうな曲を譜読みすることにしました。曲名は‘パントマイム’「びっくり箱」です。・・・禁則の嵐と予測不可能が和声進行に翻弄されているうちに、以前師事していた作曲の先生の金切り声が頭の中から聞こえてきました。
「何やってるの!こんな信じられない感性初めて!よくもこんなにひどい課題を書いてきたわ!!」「あなたの発想がもうわからない。」「ここまで汚い響きよく書いたわね、しかもここはすんごい短2度のぶつかり合い!」等。1時間半くらいのレッスンで涙目で帰らない生徒はいなかったと言われた、怒るとオネエ言葉になる先生。トラウマが蘇りました。
ウィキペディアから引用「それまでの調性音楽のあり方が誇張していた時代に、サティは様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んで行った。・・中略・・そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、そして平行音程・平行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。」
・・・トラウマから解放されるためにも、しばらくサティの曲、弾いてみます。

パリ・・・一度も行ったことがないです。
2016.04.29│コラム